谷新吾 SHINGO TANI
プロトライアスリート。活動拠点は愛知県豊橋市。
熊本第一工業高校時代、県高校駅伝競走大会第一区(10Km)に出場し区間2位に入る。 高校卒業後は、愛知製鋼に陸上競技部実業団選手として入社。しかし、高校生の時見た「トライアスロンの不思議な魅力」が脳裏から離れず、1年で陸上部を辞めトライアスロン競技を始める。 1991年7月、日本最古の大会「全日本トライアスロン皆生大会」に優勝し、日本初のトライアスロン実業団「チームテイケイ」に入社。その後、過酷なトレーニングに耐え強靱な精神と肉体を身につけ、国内のトライアスロン大会ではタイトルを数多く獲得。 1992年アイアンマンワールドチャンピオンシップでは、アマチュアの部で4位入賞。翌年プロの部に移り同大会で、総合12位にランキング、世界トップの仲間入りを果たした。
レースでは、厳しい条件になればなるほど得意のランニングでの粘走は世界のトップアスリートから「カミカゼ」「スピードスター」と称賛されつづけている。1999年のアイアンマンカナダ大会で水泳終了50位からデッドヒートを繰り返し、トップにあと36秒差の2位まで追い上げた谷のレースは、アイアンマンカナダでの歴史上の名勝負物語として語り継がれている。
アイアンマンで日本人として世界と戦うことに人生のすべてをかけて、21世紀の谷新吾は、走りつづける。
<ベスト記録>
・スイム[3.9km]:50分46秒(2001年アイアンマンカリフォルニア)
・バイク[180.2km]:4時間47分12秒(1993年アイアンマンワールドチャンピオンシップ)
・ラン[42.2km]:2時間48分50秒(2001年アイアンマンカリフォルニア)
・総合[226.3km]8時間35分27秒(1993年アイアンマンワールドチャンピオンシップ)
熊本第一工業高校時代、県高校駅伝競走大会第一区(10Km)に出場し区間2位に入る。 高校卒業後は、愛知製鋼に陸上競技部実業団選手として入社。しかし、高校生の時見た「トライアスロンの不思議な魅力」が脳裏から離れず、1年で陸上部を辞めトライアスロン競技を始める。 1991年7月、日本最古の大会「全日本トライアスロン皆生大会」に優勝し、日本初のトライアスロン実業団「チームテイケイ」に入社。その後、過酷なトレーニングに耐え強靱な精神と肉体を身につけ、国内のトライアスロン大会ではタイトルを数多く獲得。 1992年アイアンマンワールドチャンピオンシップでは、アマチュアの部で4位入賞。翌年プロの部に移り同大会で、総合12位にランキング、世界トップの仲間入りを果たした。
レースでは、厳しい条件になればなるほど得意のランニングでの粘走は世界のトップアスリートから「カミカゼ」「スピードスター」と称賛されつづけている。1999年のアイアンマンカナダ大会で水泳終了50位からデッドヒートを繰り返し、トップにあと36秒差の2位まで追い上げた谷のレースは、アイアンマンカナダでの歴史上の名勝負物語として語り継がれている。
アイアンマンで日本人として世界と戦うことに人生のすべてをかけて、21世紀の谷新吾は、走りつづける。
<ベスト記録>
・スイム[3.9km]:50分46秒(2001年アイアンマンカリフォルニア)
・バイク[180.2km]:4時間47分12秒(1993年アイアンマンワールドチャンピオンシップ)
・ラン[42.2km]:2時間48分50秒(2001年アイアンマンカリフォルニア)
・総合[226.3km]8時間35分27秒(1993年アイアンマンワールドチャンピオンシップ)