鹿屋アスリート食堂

Pearl Izumi(以下PI):最初に栗村さんの自己紹介をお願いします。

栗村:現在の仕事は海外のプロの自転車ロードレースの解説者と、ツアー・オブ・ジャパンという国内最大の自転車ステージレースの大会ディレクターというものが、二つの柱になっています。
解説者としては解説を始めたのが2000年ですから、もう解説者としては17年目になります。

スポーツ專門チャンネルのJ SPORTSで解説者をしていて、自分では真面目に解説しているつもりですが、イベント等で視聴者の方に会いますと、大体、いつも「面白いです」と言われます。

時々少し変なことを言っているのかもしれないというところもあります(笑)

PI:真面目に説明しているけど、人から聞いたら面白いネタのようなものがあるのですか。

栗村:結構、ネタはありますよ。自転車レースは200人近い選手が走りますので、選手を覚えることがすごく難しいです。
彼らをキャラクター化するなかで、少し変なことを言ったりしているのでしょうね。
自転車界の松木安太郎さんと人から言われました。安田大サーカスの団長さんには、板東英二さんと言われました(笑)。

一方では現在国際レースの主催者の仕事をしています。
最近、私が元プロ選手だったことを知らない自転車ファンの方も多いのですが、私は一応、元プロ選手です。30歳までは自転車の選手をしていました。
その後、12年間、監督業をしています。ミヤタ・スバルレーシングチーム、シマノレーシングという国内のいわゆる老舗の実業団チームの監督、コーチをした後にパールイズミさんがサポートしている宇都宮ブリッツェンという地域密着型のチームの監督を、チーム発足2年目から担当しました。

選手、監督を経て、今はレース主催者という現場の仕事を歴任してきています。

高校2年のときに高校を中退し、フランスに自転車留学

私のこれらの一連の仕事は実は自分の中の1つの哲学というか、やりたいことの上に全て成り立っています。昔を振り返ると、私は高校2年のときに高校を中退し、フランスに自転車留学をしています。

PI:え、中退したのですか。

栗村:中退しました。

PI:すごい決断ですね。

栗村:そう思います。そういう意味では、勝手ながらサッカーのカズさんのような感じだと思っています。

PI:先駆者ですね。やはりチャレンジしたいという想いがあったのですか?

栗村:多分、私はフランスのジュニアカテゴリーを初めて走った日本人です。
15歳から自転車を始めたので、1987年ぐらいです。
やはり当時日本でロードレースをしていると言うと、競輪やトライアスロンブームだったということもあり、また、今のようにツール・ド・フランスを知っている人も少なかったので、自転車はとてもマイナーなスポーツでした。
それに比べ、当時やっていたサッカーは市民権がありましたよね。

PI:サッカーをしていたのですね。

栗村:10年間サッカーをしていました。ただ自転車を始めた時、周りに何をしているのかを説明しなくてはいけなくなりました。
高校を辞めてフランスに渡ったときに、フランスで見たことはやはり文化でした。自転車が文化になっていたのです。

私がジュニアのレースに出て、前半飛び出したら、次の日の地域新聞に「日本のチャンピオンが活躍」という記事が載っていました。日本のチャンピオンではありませんでしたが(笑)、紹介されていました。やはりすごいなと思いました。向こうはこういうクラブ文化、地域型クラブがありました。ヨーロッパは全てのスポーツがクラブ文化です。いつかこのようなものが日本にもできればいいと思ったことが、私の今の全ての原動力になっています。
やはり日本で認知されていなかったこういうこと、逆にフランスで文化だったもの、このギャップが私の中のスイッチを入れました。

もちろん、その後は自分も選手としてツール・ド・フランスを目指していた時期はあります。
ただ、やはり日本では結構大きいレースに自分が出場して勝っても、隣のおばちゃんは誰も知らない(笑)、そういうジレンマともずっと戦い続けていました。

そんな中、1990年初頭にJリーグが発足しました。
もともと日本のプロスポーツは野球や相撲等がメインでした。Jリーグがそこに持ち込んだものは、ヨーロッパの地域型というクラブチーム文化でした。「これだ!」と思いました。Jリーグが発達する中で、自転車版Jリーグをつくりたい。自分がヨーロッパで見たそういうものを日本につくりたいと思ったのです。

その後、私はミヤタ・スバルレーシングチームというチームの監督をし、成績は残したのですが、結局チームがつぶれるということを経験しました。それは会社の業績によるものでした。シマノレーシングに行ってからも、やはりどうしても会社のお抱えのチームなので、理想形がなかなかできませんでした。そういう時スタートしたのが宇都宮ブリッツェンという地域密着型チームでした。規模では日本初です。

やはり今まで起こらなかったこと、自転車スポーツを愛する自分たちがラジオ番組を持つ、レースクイーンを持つ、ファンができる。「これはフランスで見たもの」かなと。

PI:近いと感じたのですね。

栗村:近いものです。ただやはり、所詮1つのチームです。ですから、やはりJリーグというまとまりのあるリーグ的なものができないと、「1チームがいくら頑張っても」と。

PI:そうですね。

栗村:とは言え、やはり私が自転車を始めた頃には信じられないことが、どんどん起きています。
一方で、日本人選手がツール・ド・フランスに出る時代になりました。J SPORTSで解説付きで全ての海外レースを見ることなんてできなかった。今はそういう時代になりました。ですから、解説者としての自分は、やはりまず日本で自転車ロードレースの文化を知らしめて、文化づくりをすること。
あとは今レース運営の仕事で行っていることは、やはり根底にある地域密着型のクラブ文化や、Jリーグのような自転車版国内リーグをつくるというところです。今ずっと20何年間の中で、まだ道半ばですが、感触を掴んでいるな、という状態です。

PI:ここで、少し選手時代の思い出を当時のウエアと過去を振り返りながら、聞かせてもらえませんか。

当時のウエア

栗村:まず17歳でフランスに行って、2年間走り日本に帰ってきました。19歳ぐらいでしょうか。

PI:10代の頃ですか。若いですね。

栗村:はい。そのフランスのジャージは今日持ってきていませんが、これが東京のサーティワン・ジャイアントという結構日本の名門クラブチームです。
サーティワン・ジャイアントというクラブチームで、本当に歴史のある名門クラブチームです。ただし、これはプロチームではありません。ここでは給料が出るわけではありません。
ただジャイアントさんがスポンサーに付いたので、自転車の提供や活動資金というものは少しサポートされてました。

サーティワン・ジャイアント

日本に帰ってきて、このチームで本格的な活動を始めました。
幾つかのレースで勝ちましたし、フランス帰りだったので少し話題になりました。しかも、この頃は若かったので生意気でした(笑)

PI:尖がっていた頃ですね(笑)。

栗村:次に自分の飛躍のきっかけになったのは、大塚製薬・ノックスです。
もともとは実業団チームで、結構、給料も出ていたチームだったのですが、私が入ったときは、半分クラブチーム化していました。ノックス(NOCS)とは日産大阪コンピューターサービスの略です。
私が入ったのは1994年、1995年の2年間ですから、時代的にはバブル崩壊後です。ここは日産自動車関連の会社だったので、多分、バブルのときはそれなりに資金があったのでしょうが、バブル崩壊後、チームが縮小化して、大塚製薬さんのサポートを受けつつなんとか活動を継続している状態でした。半分、クラブチームのような感じで、活動費は少し出してもらっていました。ここで2年間結構いい成績を残しました。国内でも、例えば全日本実業団ランキングが3位で、クラブチームの選手としては、結構いい成績を残して、シマノレーシングに入りました。

PI:これがシマノレーシングですね。これは派手ですね。

栗村:そうです。

PI:これはすごく派手ですね。

シマノレーシング

栗村:当時、シマノレーシングは正社員選手しかいませんでした。私は契約選手の第1号です。私は高校を中退しているので、最終学歴は中卒です。母体となる株式会社シマノはこの当時から、一流大学や国立大学卒業等、そういう人ばかりが集まっているエリート企業でもありました。
ですから、選手も結構いい大学を出ている人が多かったです。そんな中で、このときの私は中卒で髪の毛も金髪にしていました(笑)。

PI:えっ、金髪ってヤンキーじゃないですか。

栗村:ヤンキーではありません(笑)。
結構流行っていたんです。ヨーロッパの選手の間では、シルバーに近い金髪や、ピアス、タトゥーなども流行っていましたよ。それまで正社員選手ばかりの環境のなかに、そういう異色の自分みたいな人間が契約選手の第1号という形で、このシマノレーシングに加わったのです。
24歳のときにここで初めて給料をもらう選手になりました。うれしかったです。といっても年俸200万円です。でもアルバイトをしながら、ずっとやってきたので、私にとっては大金でした。

PI:そうですね。それからしてみれば、200万はすごいです。

栗村:もう、あと活動費は全部出ますし、機材、ウエアも全部支給されます。

PI:選手として様々なサポートが受けられるようになったのですね?

栗村:夢のような世界でした。ここで、当時それなりに大きいレースだった都道府県対抗ロードというものに勝ちましたし、国際大会でも日本人選手としては上位の成績を残しました。
2年後、26歳のときにヨーロッパのムロズというプロチームに入りました。そこで私の選手人生は一つピークを迎えます。ヨーロッパのプロに到達しましたが、同時に限界も見て、ミヤタ・スバルレーシングチームに戻ってきました。ただ、どちらかというと選手というよち運営側だったかと。私はウエアの手配をしたり。

PI:運営側の経験を積まれたのですね。

栗村:はい。選手しながらウェブサイトを作ったり、やはり格好良くなければいけないということで、移動用のブレザーをユニクロで買ってきてワッペンを作って皆で着たり、何かそういうことをしたかったですし。
選手として2年走りましたが、結構、選手ながらにマネジメントのほうも行っていました。監督をしてほしいということで、3年目から、それが監督デビューになりますが、ミヤタ・スバルレーシングチームの監督になりました。ミヤタ・スバルレーシングチームには監督として6年在籍しました。
ただ、先ほど話したように、会社の業績悪化のため良い成績を残したのですが、チームはなくなりました。もう一回、今度はコーチでシマノレーシングに戻りました。

ミヤタ・スバルレーシングチーム

PI:戻ったのですか。

栗村:はい。そのときは、もうブランドがシマノレーシングウエアのブランドになっていました。その後に、宇都宮ブリッツェンです。
宇都宮ブリッツェンに監督で入りました。

PI:なるほど。

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Interviewed and Photo by Pearl Izumi
Fueled by Kanoya Athlete Restaurant

鹿屋アスリート食堂

鹿屋アスリート食堂は、株式会社バルニバービ・国立大学法人 鹿屋体育大学・鹿児島県鹿屋市からなる「産学官連携プロジェクト」です。食材の宝庫と評される鹿屋の良質な食材を用いて、鹿屋体育大学長島講師監修の「スポーツ栄養学」に基づいたバランス食を提供。本取材は鹿屋アスリート食堂 両国店の協力により行われております。